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脱サラし英才教育塾、当初は大赤字で後悔 転機は「四谷大塚」 九州最大手、英進館40年 創業者・筒井館長に聞く

2018年04月05日 03時00分 更新


  • 教育問題や学習塾経営について語る筒井勝美・英進館館長(撮影・宮下雅太郎)

 学習塾の英進館(福岡市)が1979年の設立から40年目を迎えた。九州松下電器(現パナソニックコミュニケーションズ)を脱サラし、学習塾経営を始めた当初は生徒が集まらず大赤字だったと振り返る創業者、筒井勝美館長。4月から毎週木曜掲載の「教えて英進館」の回答者となる筒井氏に、九州最大の学習塾になるまでを振り返ってもらい、連載開始に当たっての抱負を語ってもらった。 (聞き手は椛島滋)

 ―どんな思いで塾経営を始めたのか。

 1978年、勤務していた九州松下電器でマレーシアの工場長としての転勤命令が下された。家族に相談し、子供の教育への懸念など家族の事情で転勤を断り、九州松下電器を退社することにした。

 上司からは「退社はしなくてよい」と慰留されたが、転勤を断って会社に残ることは良くないと思い、1年後に円満退社した。

 どう家族を養おうか思案していて、学生時代にやった家庭教師のアルバイトを思い出した。当時、教えていた中学生を修猷館高に入学させ、家庭教師のバイトが好きだったし、当時、有名だった森田修学館が「はぶりがいい」とも聞いて、うまくやれば家族を養えると安易に始めた。

 2人の息子たちの学校で悪平等とも思える教育実態があることも聞いていた。それに、九州松下にいた時代、若い連中に指示待ち人間が増えていて、「こらあ、いかん」と危機感もあった。塾のチラシを集めてみると、教師の退職者、塾講師からの独立などの塾経営者が多く、ならばエンジニア出身として、その経験も生かして知育、徳育、体育のバランスがとれた小学生対象の英才教育をする今までにない塾をやろうと決意した。それで塾名を「九州英才学院」と名付けた。

 ―当初は苦労した?

 実績なし、知名度なし、カネもなし。夜中に手作り看板を針金で電柱に縛り付け、明け方に帰宅したら手がひりひりする。針金のひっかき傷だった。チラシも配って塾生を募集したが、最初の生徒は息子含めて16人。当時、スポーツクラブ「インペックス」のプールや博多区の禅寺で座禅にも行ったので、月50万円の収入に経費が150万円かかった。理想だけが高く、現実は地獄だった。

 市民税や県民税が退職前の所得で計算されることを当時は知らず、塾経営が赤字だから必要ないと思っていたから、大変な思いをした。街行く人をぼんやり見ながら、退職しなければこんな惨めな思いをしなくてよかったのにと考えていたものだ。

 ―転機は何か。

 最初は、恥も外聞もなく、がむしゃらに子供が理解するまで、時間外も指導した。保護者に頼まれて中学部も作り、塾名も「英進館」に変えた。「英才学院」は、名前負けしていると思っていたから。生徒が友達を連れてくるようになり、3年目に生徒が100人を超え、初めて灘、ラサールなど難関中学に合格者を出した。

 創立6年目、東京の四谷大塚という塾の教材「予習シリーズ」を使えるようになったのは大きかった。福岡は転勤族が多い。首都圏からの転校生が中学受験のために通える塾として、四谷大塚が首都圏で実施する「日曜テスト」「合不合判定テスト」も週遅れで実施できるようになり、難関中学の合格実績が大幅に伸びた。

 保護者会や父親保護者会を頻繁に開催し、子供たちの将来は少子高齢化の厳しい時代が来るから、しっかり勉強させ、鍛えるべきだと訴えた。ぼやっとしとったら生きていけんのですよと。

 父親は学歴が高い人ほど「自分は塾やら行かんでも合格した」とおっしゃる。それで母親たちは困っていた。だから父親保護者会では「今の時代は違います。我流で勉強するのではなく私たちは大事なポイントを教えます。万が一、不合格になってもその過程が大事なのだ」と訴えた。保護者の心構え、気合も大事なんだと。


筒井勝美・英進館館長(撮影・宮下雅太郎)









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