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高良山で戦国時代体感 久留米市制作の山城マップ手に出陣! 土塁や堀切…膨らむロマン

2018年05月27日 03時00分 更新

記者:萱島佐和子


  • 高良山の山頂付近からの眺望。戦国時代と変わらず、今も筑後平野を一望できる

  • 毘沙門岳城跡の近くに残る横堀と土塁

  • 尾根を削って崖状にした「堀切」。見張りや奇襲のために造られた

  • わずかに残った杉ノ城の石垣

 福岡県の耳納連山の最西端に位置する高良山。標高312メートルの低山だが、筑後平野を一望できることから、戦国時代には多くの山城が築かれ、武将たちが戦いの拠点として陣取った。約1600年前には高良大社が創建され、長年「信仰の山」と親しまれている一方で「要塞(ようさい)の山」としての一面も知ってもらおうと、久留米市は登山ルート沿いの主な山城を紹介するマップを制作した。タイトルは「攻める!戦国高良山」。自称“戦国女子”とあって、タイトルの響きに心が揺さぶられた。マップを手に、いざ出陣!!

 16世紀後半、九州は豊後の大友、肥前の龍造寺、薩摩の島津による覇権争いが繰り広げられていた。筑後は大友が支配。高良山の麓では主要街道が交差しており、戦いの激化とともに武将たちが重要視した。

 「高良山を巡れば、武将が山城を築いた理由が分かってきます」。マップを作った市文化財保護課長補佐の白木守さん(50)が教えてくれた。マップ誕生を記念して3月末に山歩きイベントを実施。最初に筑後平野を望んでもらおうと、山頂近くの久留米森林つつじ公園をスタート地点にしたこともあり、同じルートをたどった。

 公園駐車場から歩いて10分程度で、山頂の「毘沙門岳城」跡に着いた。戦国時代から200年ほどさかのぼる南北朝時代、「筑後川の戦い」で懐良(かねなが)親王が陣を置いたと伝わる。

 当時、毘沙門岳と呼ばれていた山頂部分を平たんにして主郭を築造したとみられ、一帯には長さ50メートルの横堀や土塁のほか、深さ3メートル前後の堀切が残る。ただ「懐良親王が築いたのかは分かっておらず、築城時期は不明なんです」と白木さん。「いずれにしろ、敵襲への備えには絶好の立地に間違いありません」

 次は「杉ノ城」跡を目指した。山頂西側の尾根を上り下りしながら400メートルほど歩くと急斜面が現れた。備え付けのロープをつかんで登っていたところ、3メートルほどの頭上に突然人影が現れ「いたぞー」との叫び声。思わず、たじろいだ。

 「当時を実感してもらえましたか」。市文化財保護課主査の水原道範さん(56)はいたずらっぽく笑う。急斜面は杉ノ城の堀切。南北朝時代、肥後を治めた菊池氏が布陣したとされる。菊池氏は懐良親王の腹心で、杉ノ城は毘沙門岳城を守る出城とみられている。城の石垣も数カ所で確認できる。

 と、ここまで歩いてちょっと疑問が湧いた。毘沙門岳城、杉ノ城ともに舞台は南北朝−。「この時代も二つに分裂した朝廷が争った『戦乱の時代』。地形的に有利なため、その後の戦国武将たちも山城を再利用したんです」と水原さん。

 その後、ルートを下ること約30分。杉ノ城跡から高良大社の境内を通って朱色の鳥居をくぐり、しばらくすると「吉見岳城」跡に到着した。標高158メートルで、高良山のちょうど中腹。当時の文献には、大友宗麟が肥前を攻めるために陣を置いたことが記されている。開けた眺望はもちろん、平野部に近いことも重視したとみられるという。1587年には九州征伐に乗り出した豊臣秀吉が布陣した。現在の琴平神社の場所に主郭があり、全長約100メートルの土塁跡が往時を物語る。

 マップは山頂から麓の高良山御手洗橋までの約2・5キロとJR御井駅までの約3・4キロの徒歩ルートを案内。戦国時代には少なくとも八つの山城があったとされ、うちルート沿いの四つを紹介している。甲冑(かっちゅう)姿の武将たちが駆け巡った高良山。今なお残る遺構が想像力をかき立てる。










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