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九州新幹線、西九州道、長崎道「県の社会基盤築いた」 高田勇元知事死去

2018年09月16日 03時00分 更新


  • 16年の知事生活に別れを告げ、県庁を後にする高田勇氏=1998年2月27日

  • 普賢岳の噴火状況について、九州大島原地震火山観測所の太田一也所長(当時)から説明を受ける高田勇氏(中央)と鐘ヶ江管一島原市長(当時、左)=1990年11月17日

  • 九州の知事サミットで発言する高田勇氏(中央)=1986年10月25日、福岡市

普賢岳復興基金「自主救済」に風穴

 8日死去した元長崎県知事の高田勇氏(享年92)は1982〜98年、4期16年にわたり県政のかじ取りを担った。当時を知る人々は、九州新幹線西九州(長崎)ルート着工への道筋をつけ、雲仙・普賢岳の被災地復興に向け迅速に対応したことなどを評価し「長崎の社会基盤を築いた人物だった」と悼んだ。

 西九州自動車道や長崎道を整備し、県内各地に橋を架けるなど「道路の高田」と呼ばれた。前任知事の久保勘一氏が地域活性化のため空港整備に力を入れたのに続き、高田氏は陸の交通網を整えた。「あの時代の計画が、現在の社会インフラにつながっている」。高田県政時代、県議だった谷川弥一衆院議員は話す。

 九州新幹線もその一つ。当初計画の佐世保経由案を断念し、96年の“着工決定”にこぎ着けた。「道路と鉄道の動脈は通しておかないと、道州制になった時に取り残される」。2012年、諫早−長崎間の起工式に出席した高田氏はそう語っている。

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 県と佐世保市が川棚町に計画する石木ダム事業では82年、機動隊を使って強制測量を実施し、反対地権者の不信を買った。就任2カ月後の出来事だ。今なお、事業の是非を問う裁判が続いている。強制測量当時に町職員だった山口文夫町長は「事業を進めるために苦渋の選択をしたのでは」とおもんぱかる。だが地権者の一人は、高田氏が知事引退後に「強制測量は間違いだった」と発言した報道を振り返り、「辞めた後、それを言われても…」と複雑な心情を語った。

 10日開会した県議会の冒頭。中村法道知事は高田氏の訃報に触れ、「本県にとってかけがえのない幾多の業績を残されました」と述べた。今年1月に業務が始まった新県庁舎への移転を決めた高田氏は昨年12月、落成式のテープカットに車いすで臨んだ。県職員時代に高田氏の秘書を務めた中村知事はこの日記者団に「最も尊敬する上司で、いろいろな指導を受けた」と語った。

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 知事として、82年の長崎大水害や、91年の雲仙・普賢岳噴火による火砕流への対応にも追われた。

 火砕流で43人が犠牲になった後、高田氏は島原市に対し、居住地域を警戒区域にするよう要請し、国と県による生活保障を約束した。当時、市長だった鐘ケ江管一さん(87)は「高田さんが背中を押してくれなかったら、何百人もの犠牲者が出ていただろう」と振り返る。決定翌日に再び大火砕流が起き、家屋など175棟が焼失したが、死傷者はいなかった。

 自然災害は「自主救済」だった時代、県が立ち上げた雲仙岳災害対策基金は市民の再起を後押しし、その後の阪神大震災などでも災害復興の参考にされた。「高田さんが被災地を全面的に支援してくれたおかげで、島原はここまで復興できた」と話す。

 インフラ整備の印象が強いが、85年の在長崎中国総領事館開館など、日中友好にも力を注いだ。今年3月、高田氏は劉亜明総領事に対し「一衣帯水の隣国。これからも両国の友好事業に貢献する」と語ったという。劉総領事は「(両国の)友好事業を新たな段階に持ち上げ、多大なる貢献をした。高く評価し、心より敬意を表します」とのコメントを出した。










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