qBiz 西日本新聞経済電子版
ログイン

幕末の「精煉方」技術 今に 副島硝子工業の「肥前びーどろ」 佐賀市

記者:平原奈央子

工芸的な美しさで酒席を飾る「肥前燗瓶(かんびん)」。ガラス棒(手前)を使った「ジャッパン吹き」で作る

ガラス棒で宙吹きする「ジャッパン吹き」。2本で仕上げる方法は「二刀流」とも呼ぶ

「ガラスは棒の先に原料を取る工程から『玉取り3年』と言われ、技術習得が難しい世界。伝統を継承しながら新しいガラスを作りたい」と話す副島太郎社長

明治〜昭和の日常とともにあったビン類

精煉方でのガラス製造の様子を伝える「佐賀藩精煉方絵図」(公益財団法人鍋島報效会蔵)

 透き通る清涼感と、柔らかな手ざわりが魅力の「肥前びーどろ」。幕末佐賀藩の理化学研究所「精煉方(せいれんかた)」にルーツを持ち、副島硝子(がらす)工業=佐賀市道祖元町=がその技術を今に伝えている。

ガラスの美 工芸の世界へ

 精煉方は1852年、多布施川のほとりに設置。佐賀藩は、佐野常民を主任に秀才たちを集め、洋書の翻訳を基礎に蒸気船や大砲製造を進めた。カメラや紙、薬剤と研究分野は幅広く、佐野常民記念館の諸田謙次郎館長(63)は「日本の近代化と物づくりの発祥の地、原点になった」と話す。

 飽くなき好奇心と研究熱を支えたのが、敷地内に置かれたガラス工場だった。昼夜煌々(こうこう)と火がともる熔解(ようかい)炉で実験用ビーカーやフラスコが作られ、火を操る術は肥前陶工たちの知恵があったともいう。

 ガラス製造は日本では、弥生時代の勾玉(まがたま)製造などが確認されているが、本格的な国産が始まったのは17世紀前後から。出島での交易を通して製造技術が伝わったらしい。ポルトガル語がなまって「びーどろ」「ぎやまん」と呼ばれ珍重された。佐賀藩では武雄鍋島家が最初にガラス製造に着手し、精煉方での製造へとつながっていった。

 副島硝子工業の初代社長、副島源一郎さんは8歳で精煉方に弟子入り。孫にあたる副島太郎社長(69)は「祖父はまだ子どもだったので、佐野常民さんから文机(ふづくえ)や革帯(ベルト)をもらいかわいがられたそうです」と明かす。精煉方のガラス技術は明治に民営会社に受け継がれ、副島硝子工業は1903年に独立。ランプやビン類で近代化に貢献し、金魚鉢やハエ取り瓶などが広く普及した。

 昭和の高度成長期にはオートメーション工場の出現で経営難に直面する。太郎社長が営業担当として入社したばかりのころだった。「もう手作りはやめようとしていたら、職人さんが『30年ガラス一筋で、やっと作りたい物ができてきた。無念で仕方ない』と言うんです。そこで若造だった私にも物づくりへの羨望(せんぼう)が生まれた。『もうちょっと辛抱すれば、きっといい時代が来る』と、自分も工場に入って作り始めました」

 手作りガラスブームのあけぼのも見え始めていた。看板商品の「肥前びーどろ」は精煉方ゆかりのガラス棒を使う「ジャッパン吹き」で、型を使わない宙吹きで仕上げる。柔らかな曲線の酒器「肥前燗瓶(かんびん)」は佐賀の酒席に異国情緒を添え、用と美を兼ね備えた器たちは茶人にも愛された。

 近年では明るい色彩の虹色シリーズが人気で、「伝統を受け継ぎつつ、新しいガラスを作っていきたい」と太郎社長。アクセサリーや玉手箱なども企画中で、より工芸としてのガラスの美を生かしていきたいという。

 理化学研究から近代化の原動力に、そして日用品から工芸の世界へ。精煉方の物づくり精神は、今もガラスのきらめきの中に宿っている。

     ×

 9月10日まで、佐賀市川副町の佐野常民記念館で企画展「ガラスの世界〜佐賀藩精煉方の歩みと佐野常民」が開催中。精煉方の歴史と副島硝子工業の製品約30点を展示。一般300円、小学生〜高校生100円。9月4日は休館。同館=0952(34)9455。副島硝子工業=0952(24)4211。展示販売あり。



Recommend

ランキング(週間)

Recommend